コロンビア移民史年表
| 西暦 | 和暦 | |
| 1908 | 明治41 | 日本コロンビア修好通商航海条約調印され,国交開始 |
| 1921 | 大正10 | 星野良治コロンビア国入国 |
| 1923 | 大正12 | 島清,中村明,西国徳次,松尾太郎,多田野克己の5名が安洋丸でベナベンツーラ港に入る。 |
| 1926 | 大正15 | 海外興業会社社員,竹島雄三,巻島得寿によって移住候補地の調査開始される。 |
| 1928 | 昭和3 | 外務省,海外興業会社によるコロンビア日本人試験移住地に関する大項を決定し,その業務遂行を会社に認可する。 |
| 1929 | 昭和4 | 海外興業会社,コロンビア共和国,カウア県,コリント村,ハアグル地区に200プラサス(128ha)の移住地を購入完了。 第1次農業試験移住者5家族25名,日本郵船楽洋丸で横浜出港。コロンビア国ベナベンツーラ港に入港し,全員無事新植民地に入る |
| 1930 | 昭和5 | 第2次農業試験移住者5家族33名,日本郵船楽洋丸で横浜出港。コロンビア国ベナベンツーラ港に入港 |
| 1931 | 昭和6 | 移住地における水稲試作不成功に終わる。ウヅラ豆(菜豆)の試作開始。移住地第1回運動会開催 |
| 1932 | 昭和7 | 移住地の整備完了し,栽培作物はトウモロコシ,カウビー豆,ソバ,綿花,コーヒー,ココア,プラタノ,パパイヤ等多彩となる。ウヅラ豆の栽培が軌道にのり,次後永年にわたって移住者の栽培する主要作物となる。 |
| 1933 | 昭和8 | 第1次,第2次農業試験移住者の海外興業会社との契約期間終了。この内6家族,カロット役場に地権登記を行う。 |
| 1934 | 昭和9 | ボゴタに日本国公使館設置。移住地に6家族共同購入によるトラクター1台導入。移住者によって植民地小学校,西語研修のための夜間青年学級を開設。拓務省,海外興業会社,福岡県海外移住組合によるコロンビア日本人移住地拡張計画成る。 |
| 1935 | 昭和10 | 第3次農業移住者10家族105名,日本郵船平洋丸で横浜出港。コロンビア国ベナベンツーラ港に入港。100名入国(1家族5名はペルーへ行先変更) |
| 1936 | 昭和11 | コロンビア・ハグアル移住地に管理費が支給されるようになる。中村末次郎氏,個人として最初のトラクターを導入。 |
| 1937 | 昭和12 | 第3回移住地運動会開催。公使館の支援により移住地に補助金の支給が認められ,植民地小学校運営費の一部を助成 |
| 1938 | 昭和13 | 移住地の農業機械化が次第に進み。この年までに移住者の所有するトラクター数は25台となる。 |
| 1939 | 昭和14 | 移住者によるウヅラ豆の栽培技術が一層すすみ,価格は堅調で大型農業機械の導入資金,新農地の購入運営資金の蓄積すすむ。このころから移住地に盗難事件あいつぐ |
| 1940 | 昭和15 | この年から移住者は最初の入植地をはなれ,新しい耕地を求めて次第に分散し栽培面積の拡張を計る。ウヅラ豆の価格変動に刺激されて,移住者による最初の「農業組合」が結成され,事務所をカリ市内に置く。 |
| 1941 | 昭和16 | コロンビア,日本との国交を絶つ。 |
| 1942 | 昭和17 | 公使館員並びに家族日本へ引き揚げ。移住地,コロンビア国官憲の保護・監視下におかれる。石橋夫人,モモヨ姉殺害事件発生。 |
| 1943 | 昭和18 | 一部の日本人,フサガスカの敵国人収容所に軟禁される。移住地小学校,自然消滅する。最初の農業組合解散する。 |
| 1944 | 昭和19 | 戦時中にも拘らず移住地の分散拡大すすむ。 |
| 1945 | 昭和20 | 第二次大戦終了し,抑留者保釈される。 |
| 1946 | 昭和21 | 移住地の分散に拍車がかかる |
| 1947 | 昭和22 | 最初の移住地ハグアルより田中鹿吉,二階堂重太郎,倉富楚次の3家族転出し,残留は森田の1家族のみとなる。 |
| 1948 | 昭和23 | 農産物価格維持のため再度の農業組合の結成を計るも不成功に終る。資産凍結解除。 |
| 1950 | 昭和25 | 日本人耕作面積5000haを突破する。 |
| コロンビア移住史 編集委員会 1981 から転載しました。 | ||
| 参考文献 | ||
| コロンビア国カウア平原邦人移住地事情 藤原茂著 1936 |