松原 安太郎(まつばら やすたろう)
 明治25年(1892年)~昭和36年(1961年)
 みなべ町 生まれ

 明治25年(1892年)、日高郡岩代村(現:みなべ町)に生まれる。1912年(大正元年)、広島県の呉海兵団機関兵として入営し、第一次大戦では巡洋艦矢矧(やはぎ)乗組員として日独戦に出征した。南洋、オセアニア方面で活躍し、カロリン群島占領の功によって勳八等桐葉章を授与された。
除隊後結婚し、大正7年(1918年)9月、長崎港から讃岐丸でブラジルへ渡った。同年10月に到着し、パウリスタ線ピラチニンガ駅サンタ・カタリーナ耕地に配属された。2年後、ビヤード耕地の通訳に推薦されて勤務する傍ら、ここで借地し日雇いを入れて綿花の栽培を始めた。その後、事業は飛躍的に発展し大農主の地位を築いたのであった。
 第二次世界大戦後の日本は、空襲でほとんどの工場は破壊され、そのうえ、海外からの引き揚げ者等で人口は急増し、食糧難、就職難、インフレ等未曾有の経済危機を迎えていた。このような時、安太郎は親交のあったブラジルの時の大統領ゼツリオ・ヴァルガスの協力により、昭和27年(1952年)、中部ブラジル4か所(マトグロッソ州、ミナス・ジェライス州、バイーア州、マラニョン州)に8年計画で4千戸、2万人の日本人移民入植計画(いわゆる「松原計画」)をブラジル国移植民審議会に申請し承認を得る。同年11月、松原安太郎は日本を訪問した。天皇陛下に拝謁し、松原案の実行について、政府の要人と折衝した。日本政府は、この朗報に急遽対策を講じ、移民の募集の意向を固めた。そこで、いち早く受けて立ったのが和歌山県であった。和歌山県は、昭和28年(1953年)に、移民課を新設し、移民を行政の立場から支援したのである。
 一方、ドラードスやウナの入植地から逃げ出す者が相次いだ。これによって、ブラジル政府から損害賠償を求められ、解決がつくまでは松原計画を中止するといった声もでてきた。さらに、ヴァルガス大統領が自殺し、松原計画はその後思うようには運ばなくなったのである。
 安太郎は、晩年、持病の高血圧症に悩み、昭和29年(1954年)に帰国し、郷里の南部町で静かに余生を送ることになった。そして、1961年(昭和36年)12月5日朝、病状が悪化し、自宅で妻のまつにみとられながら、静かに息を引きとった。
 戦後日本人のブラジル移民再開に尽くした功績は大きく、「移民の父」と称された。