佐藤 虎次郎(さとう とらじろう)
佐藤 虎次郎
元治元年(1864年)~昭和3年(1928年)
本泉村(現:埼玉県本庄市)出身

 元治元年(1864年)、本泉村(現:埼玉県本庄市)に生まれる。旧姓は茂木。庄屋を営む茂木太平の三男。横浜の実業家原家に仕えて貿易の修業をしながら商法と英語を学ぶ。海外遊学の志を抱き、明治18年(1885)渡米。 明治23年(1890年)にミシガン州立大学を卒業した後も現地にとどまり、野中の一家屋を格安で借り受け、自炊し、演説活動をしていた。そこに、ミシガン州立農学校を中退した南方熊楠がころがりこみ、虎次郎の世話になっていたという。虎次郎と南方熊楠は、その後も親友としての付き合いを続けていった。
 明治24年(1891年)和歌山県東牟婁郡高池町(現:古座川町)の材木商の娘おくと結婚、養子として和歌山県に移り住む。
 明治26年(1893年)、外務大臣陸奥宗光の嘱託を受けて、オーストラリアでの移民の実態を調査。帰国後、オーストラリア進出を決意し、町の青年たちを率いてクイーンズランド州の木曜島(サースデーアイランド)に移り、「佐藤商店」として幅広く事業を行った。特に、洋服の高級ボタンや工芸品に用いられる白蝶貝の採取事業では、和歌山県紀南地方出身の優秀なダイバーの働きでその実権を握り、「木曜島のキング」と呼ばれるようになる。しかし、日清戦争後、日本人事業家に対する圧力が強くなり、移民制限法が制定されたため、やむなく帰国する。妻おくは体調を崩し、帰国の船の上で亡くなった。
 明治36年(1903年)、第8回総選挙に群馬県から立候補して当選。また、横浜新聞を創刊するなど幅広い活動を行う。
 明治43年(1910年)、朝鮮半島に渡り農林業を経営。大正15年(1926年)、故李王殿下弔問の帰途、金虎門前で凶徒に襲撃され、この傷が原因となり、昭和3年(1928年)、京城で亡くなった。
 佐藤虎次郎は、その全生涯を通じ、絶えず海外発展を意識し、またそれを実践してきた。和歌山県のオーストラリア移民に関しては、恩人とも言える人物だったのである。